龍の彫刻
文化財担当の安田技官が、明治初年の写真と日光東照宮の龍を参考に原図を描いたと記録されています。
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城下町の学びと、文化財を守る人々。
松本城とこの学び舎には、
歴史の中で重なり合う物語があります。
明治の大工がつくり、
町の人々が使い、守り、未来へつないだ学校。
長野県松本市にある旧開智学校校舎は、2019年に近代の学校建築として初めて国宝になりました。日本と西洋の意匠を組み合わせた建物には、新しい教育への期待が込められています。
いまの姿をよく見ると、1876年から残る部分と、1960年代に資料をもとによみがえらせた部分があります。その違いを知ると、校舎の見え方が変わります。
全編イラスト版 掲載画は、資料の内容をもとに新しく描いた説明用の挿絵です。
このページは2020年の講演原稿・スライドをもとに、公式資料で確認できる事実を補って構成しています。関係者の回想は「講演資料の証言」として示します。資料の読み方
最初に知りたい、松本城とのつながり
松本城は近世の城郭、旧開智学校は近代初期の学び舎。時代も役割も違う二つの建物は、城下町の教育と、保存を担った人々の活動によって結びついています。
開智学校は、松本藩の藩校「崇教館」の流れをくむ「筑摩県学」を母体として開校しました。城下町で育まれた教育が、明治の学校へつながっています。
講演資料は、松本城の昭和の大修理に伴う検査で来松した内田祥三に、関野克が開智学校を見せたと伝えます。二つの建物の保存史が交わる場面です。
城の保存・修理にも、学校の建設・保存にも、地域の人々が関わりました。二つを見学すると、松本で文化財が残された背景までたどれます。
学びの系譜を表しています。藩校の建物が、そのまま現在の旧開智学校校舎になったという意味ではありません。
松本城の傷みを見かねて修理を呼びかけたのが、松本中学校長の小林有也でした。地域の賛同と募金を集め、1903〜1913年に修理が行われました。教育に携わる人が、城の保存にも力を尽くしたのです。
小林の勤務先は、開智学校とは別の松本中学校でした。教育を支えた人々の、文化財保存への関わりを示す一例です。
教育の系譜:旧開智学校公式年表。城の修理:国宝松本城の公式解説。関野・内田の訪問の逸話:講演原稿6節・スライド17。掲載画は建物の特徴を伝える描き起こしです。
建物を探検
イラストの番号を押すと、見どころが分かります。西洋風の姿を、日本の大工が伝統の技術でつくる。これが擬洋風建築です。
校舎の中央にそびえる、八角形の塔です。左右に広がる建物の中心を強調し、新しい時代の学校であることを印象づけます。講演資料では、塔内に鐘がつるされていることも紹介されています。
見どころ:建物全体のシンボル建物の特徴を伝える説明用イラストです。細部や寸法を正確に再現する図面ではありません。実際の校舎の龍と天使などは、移築時に復原されました。
国宝として評価されたのは、華やかな外観だけではありません。建物の内部には廊下を通し、教室や講堂などを整然と配置しました。授業中の教室を通り抜けずに移動できることも、学校にとって大切な工夫です。
当時の校舎は本館の背後に教室棟がつく逆L字形でした。敷地を使いながら校庭を確保し、採光や部屋の使い方も考えられていました。
右の図は「廊下で各室をつなぐ」という考え方の模式図です。現存校舎の正確な間取り・部屋数を示す図面ではありません。
出典:文化庁 国指定文化財等データベース/松本市「旧開智学校校舎が国宝になりました」/講演原稿1節。
つくった人と、町の願い
設計・施工を担ったのは、松本の大工棟梁、立石清重。江戸時代からの技術を身につけた職人が、明治の新しい学校を形にしました。
立石は校舎を建てる前に東京や横浜へ行き、当時の洋風建築を見学しました。新しい姿を観察し、自分の知る材料と技術でどう実現するかを考えたのです。
講演資料は、立石を「大工棟梁というよりは建築家」と紹介しています。設計だけでなく、職人をまとめ、材料や工程を考えることも棟梁の仕事でした。
その後も学校、裁判所、県会議事堂、郵便電信局や住宅などを手がけ、活動は松本の外にも広がりました。
資料は、東京医学校に学んだ息子・清美を立石が1875年に亡くしたと伝えます。同校の設計図を見た可能性については、村松貞次郎の推測として紹介されています。息子への思いと校舎の設計を結びつける部分は、確定した設計意図とは分けて読んでください。
工事費は当時のお金で1万1千余円。公式沿革によると、その約7割を地域の人々が負担しました。残る約3割は特殊寄附金や、廃寺の古材に関わる収入などで調達しています。
美しい校舎の背景には、子どもたちの学ぶ場所を整えようとする、地域の大きな負担と期待がありました。
出典:旧開智学校公式「沿革」/講演原稿2節・スライド6〜9。
150年のあゆみ
年を選ぶと、その時代の出来事と説明用の挿絵を表示します。開校、建築、指定、移築。それぞれの時期を分けると、歴史が見えてきます。
地元の大工棟梁・立石清重が設計・施工した新校舎が完成。4月22日に竣工式典が開かれました。当初は本館の背後に教室棟がつく、逆L字形の大きな学校でした。
公式年表・沿革による。挿絵は復原後の外観をもとにしたイメージ。
出典:旧開智学校公式「150年のあゆみ」/公式概要/文化庁指定記録。
守った人々
建物をつくる人、価値を見いだす人、調べる人、記録を残す人。人物のイラストを押すと、それぞれの役割が分かります。
学芸員として調査・資料整理・展示に関わり、のちに博物館長などを務めました。講演では、立石家の記録を書き写したことや、復原の経緯を証言したことが紹介されています。
水害復旧、学校の移転、保存後の活用や用地確保に関わった市長。講演資料は、その行政上の判断と交渉を大きく取り上げています。
貴男は指定・移築復原に関わった実務担当者で、初代管理事務所長。息子の由紀一が、父の記録と関係者の話を2020年の講演にまとめました。
スマートフォンでは、上の人物紹介と本文でも同じ関係を読めます。図は師弟関係や組織の指揮系統を示すものではありません。
出典:講演原稿2〜8節・スライド6、13〜17、21〜27。人物画は資料に登場する人物の特徴を参考にした、説明用の描き起こしです。
日本銀行との、意外な接点
講演の題名にある「日本銀行本店」は、文化財の価値をどう認めるか、というエピソードに登場します。
辰野金吾の作品もまだなのに、
講演資料に記された内田祥三の発言の趣旨を、読みやすく要約。
地方の大工の建物を先に
重要文化財にできるのか。
日本銀行本店や東京駅を設計した辰野金吾は、日本の近代建築を代表する建築家です。講演資料は、建築界の重鎮だった内田祥三が、辰野作品より先に開智学校を指定することへ難色を示したと伝えています。
関野克は、まず実物を見てもらうことが必要だと考えました。そこで松本城の修理工事の検査で訪れた内田の帰路に、開智学校へ車を回して建物を見せた、と語られます。
関野は、明治初期の擬洋風建築として開智学校の価値を重く見ていました。
松本城の昭和の大修理は1950〜1955年。講演は、検査に訪れた内田に学校を見せたと伝えます。
1961年に開智学校が重要文化財に指定。内田は反対しなかったと資料は伝えます。
公式記録で確認できること 両建物の指定日は確認できます。一方、会話の正確な言葉や車の経路、心境の変化は、講演資料の回想として紹介しています。
出典:原稿3〜6節・スライド11〜17/日本銀行の公式説明/文化庁指定記録。
水害と移築
1959年、台風で女鳥羽川が氾濫。災害から町を守るための河川改修が、学校の移転と本館の保存をめぐる議論につながりました。
講演原稿が引用する市長の回想録による数値。当時の被害の大きさを知るために示しています。
復旧計画では、川幅を広げ、川底を掘り、橋や両岸の道路を整備することになりました。川沿いの学校は、その計画と重なります。
講演資料によると、降旗市長は学校の移転と本館の移築を決断しました。一方、文化財側には、元の場所から移すと価値が損なわれるという懸念がありました。
建物を残すことと、元の場所で残すこと。この二つが両立しない場面で、何を優先するのかが問われたのです。
市は防災上の必要性に加え、移築後は教育資料を展示する施設として積極的に保存・活用すると説明した、と資料は伝えます。
「移築すれば指定を取り消す」という発言は講演資料の記述です。実際に指定が取り消されたという意味ではなく、移築一般に自動適用される規則でもありません。
1 旧所在地 → 2 現在地
1963–1964年に移築。青い矢印は、二つの地点を結ぶ移築の方向を示します。運搬車の通った道や、徒歩ルートを示す線ではありません。
旧所在地は、女鳥羽川南側に残る「旧開智学校跡」の碑を代表点としています。当時の校舎の正確な輪郭や敷地境界を示す図ではありません。現在地と松本城は、それぞれ校舎・天守の位置を示しています。
道路・水路・地点の地図データ:© OpenStreetMap contributors(ODbL)。表示を整理して作図。直線距離は地点座標からの概算です。確認:2026年10月2日。
旧所在地は、松本城天守の南西側、女鳥羽川の南岸。現在の旧開智学校校舎は、天守の北西側にあります。川沿いで学びを支えた建物が、城の北側で保存・公開されるようになったのです。
旧所在地の碑から現在の校舎までは、直線で約1.0 km。地図は北を上にし、同じ縮尺で配置しています。
候補地は信州大学医学部付属病院の跡地でした。講演資料によると、もともと市が提供した土地であっても、そのまま無償で戻るわけではありませんでした。
市営球場と庭球場を大学に譲渡することを条件に、用地を確保したと説明されています。文化財を残す仕事には、調査や工事のほかに、土地や財産をめぐる調整も必要でした。
講演資料は、元の校舎が東向きで、移築後に南向きになったことにも触れています。保存を考える際には、建物の部材や形だけでなく、場所・向き・周囲との関係も論点になります。
出典:原稿7節・スライド19〜21、26の発表者メモ/公式150年年表。位置の照合:松本市「第一地区ウォーキングマップ」、信州大学歴史探訪マップ(松本キャンパス周辺史跡巡り)。移築の時期は旧開智学校の公式沿革で確認。
イラストで変化を見くらべる
重要文化財に指定された1961年ごろ、正面には天使も龍もありませんでした。移築にあたり、「指定時の姿」と「創建時の姿」のどちらで残すかが議論になりました。
スライダーを動かして、屋根と装飾の変化を見くらべられます。指定当時と復原後の特徴を描き分けた説明用イラストで、細部・寸法の実測復元ではありません。
建物が長い時間の中で変化したことも歴史です。失われた装飾を再現する際には、推測が入り込むおそれがあります。
天使・龍・唐破風を取り戻すことで、立石清重の独創的な意匠を伝えられます。そのためには復原の根拠が必要です。
どちらにも守りたい価値があります。選ぶと、それぞれの考え方の利点と課題を表示します。
古写真、建築資料、解体で分かった部材の痕跡などを検討して進められました。完成後、昔通った卒業生が変化に驚いたと講演資料は伝えています。
正面の装飾は完成後約20年で姿を消し、1896年の水害復旧と関係した改造と考えられています。公式年表/原稿7節・スライド18、22〜23。会議の欠席をめぐる裏話は関係者の回想であり、ここでは復原の技術的・思想的な論点を中心に紹介します。
復原の根拠を読む
復原の方法は、部分によって異なります。何を残し、何を新しくつくり、その根拠は何だったのか。講演が引用する工事関係者の記録から見てみましょう。
見た目が整うだけでは、後から工事の妥当性を確かめられません。何を手がかりに、誰が原図を描き、どのように制作したかを記録することが大切です。
講演では、柏澤貴男が残した記録と佐藤玲子らへの聞き取りが、復原過程を理解する資料になったと説明しています。
下の分類は説明のための整理です。写真や類例を使った部分には複数の根拠が組み合わされており、分類だけで復原の確実性を順位づけるものではありません。
6項目を表示
文化財担当の安田技官が、明治初年の写真と日光東照宮の龍を参考に原図を描いたと記録されています。
松本市教育委員会の係長だった西沢洋(にしざわ よう)が、古写真を参考に天使の原図を制作しました。西沢は春陽会に所属していた画家で、松本市美術館には《風景》《街》の2点が所蔵されています。画家が市の職員となり、その描く力で文化財の復原を支えたのです。
書家・秋山金城が写真を見て文字を写し、原図を作成。彫刻は承認を得た原図に基づいて制作されました。
写真と、正覚院の倉庫にあった現物を参考にしたと記録されています。形を確かめる手がかりを探しました。
写真がなかったため、ハッサム邸や泉布観のシャンデリアを参考に制作したと説明されています。
貴重なガラスとの鑑定を踏まえ、一部の補修にとどめたと記録されています。ベルギーまたはフランス製という見解も紹介されています。
最初の名称は、現役の学校としての「開智小学校本館」。移築後は「旧開智学校校舎」となり、建築関係資料も保存の対象に加わりました。
公式概要では、1965年に文書27点と図面1枚を附として指定したと説明しています。建物だけでなく、建設の過程を伝える記録の価値も認められたのです。
復原方法:原稿8節・スライド26に引用された工事関係者の記録による。名称の変化はスライド24の指定書を参照。掲載画は保存対象を伝える挿絵です。附資料の指定:公式概要。照明の参考建築「泉布観」は、原資料の表記「泉布館」を訂正しています。 西沢洋の人物情報は提供された補足情報を反映。作品2点の所蔵は松本市美術館コレクション検索、春陽展への出品は第35回春陽展の出品記録で確認できます。
国宝になった理由
2019年9月30日、旧開智学校校舎は国宝に指定されました。古さに加え、建築の独創性と計画性、近代教育の黎明を伝える文化史的な意味が評価されています。
地方の大工が洋風建築を学び、伝統の木工や左官技術で実現。文明開化の具体的な姿を示します。
天使、龍、唐破風、八角塔。異なる要素を組み合わせた、独創性の高いデザインです。
中廊下、級別の教室、広い講堂などを整然と配置。当時の新しい教育を支える空間でした。
立石家などに伝わる文書や図面を調べることで、設計の過程や地域の建築事情を詳しく知ることができます。
講演は、校舎創建140周年を機に進められた調査研究、立石家資料の整理、関係者への聞き取り、復原記録の検討を紹介しています。
2018年にまとめられた調査研究報告書も、その成果の一つです。講演者は、関野克や村松貞次郎らの研究に加え、後の研究者や学芸員、資料を守った人々の仕事に光を当てています。
物語を広げる、挿絵のギャラリー
講演に登場する建物や、保存にまつわる記憶を、新しい挿絵でたどります。押すと大きく表示します。建物の細部や人物・場面には説明のための創作が含まれます。
すべて新規制作の説明用イラストです。原資料の写真・記事・色紙・図版の画像は収録していません。歴史的な形状や場面を厳密に検証する場合は、掲載した公式資料と原資料をご参照ください。
読んだあとに、4つの確認
答えを選ぶと、その理由が表示されます。分からないときは、前の章へ戻っても大丈夫です。
やさしい用語案内
日本の大工たちが西洋の建物を見学するなどして、その姿を伝統の材料や技術で実現した建築。和風と洋風が混ざり合うところに、明治初期の文化受容が表れます。
大工たちをまとめる責任者。設計、材料の手配、職人や工事の管理なども担いました。立石清重もその一人です。
建物を別の場所へ移して建て直すこと。旧開智学校では本館を解体し、部材を扱いながら現在地で組み直しました。
改造や損失で変わった部分を、調査と根拠に基づいて、ある時期の姿に戻すこと。どの時代を目標にするか、何が根拠になるかが重要です。
中央がふくらみ、左右へ曲線を描く屋根の意匠。旧開智学校の正面では、天使の額の上に見られます。
国は価値の高い有形文化財を重要文化財に指定し、その中でも特に優れ、文化史的意義の深いものを国宝に指定します。「重要美術品」は過去の制度で、すべての文化財が必ず通る前段階ではありません。
主となる文化財に関連して、併せて指定される資料。旧開智学校では、建築に関する文書や図面がこれにあたります。
経験した人や、その話を聞いた人が出来事を語ったもの。公文書には出にくい事情を知る手がかりですが、言葉の正確さや因果関係は、ほかの史料と照合して考えます。
松本で出会う、二つの国宝
松本城では「誰が城を守ったのか」を、旧開智学校では「どのように学校を残したのか」を考える。二つの国宝を歩く時間が、町の保存の歴史をたどる時間になります。
校舎は2026年に創建150周年を迎えました。開館日・料金・見学できる範囲は変更されることがあるため、訪問前に施設の公式情報をご確認ください。掲載画は松本城と旧開智学校の特徴を伝える挿絵です。
資料と出典
このページでは、講演の魅力を生かしながら、確認できる事実、関係者の回想、説明のための図や挿絵を区別しています。
公式資料 指定日、沿革、指定理由などは、文化庁・松本市・施設の公式資料を参照。
講演資料の証言 会話、交渉、個人の判断をめぐる話は、講演者や関係者の回想として紹介。
模式図・イラスト:理解を助けるための表現です。実測図や歴史写真の代わりには使っていません。
編集基準日:2026年10月2日。原資料は2020年の講演資料です。施設情報は各公式サイトをご確認ください。
画像:本ページの挿絵・人物画は、AIを用いて制作した説明用イラストです。図解は内容に合わせて作成し、移築の位置図には出典を明記した地図データを使用しています。原資料の写真・肖像写真、新聞・指定書・色紙・報告書のスキャン画像は収録していません。建築・人物の特徴を参考にした描き起こしと、内容を表す概念図を使い分けています。人物画は外見の解釈を含み、建物の細部・風景・場面には創作的な表現があります。
構成・デザインの参考:松本市公式観光サイト 松本旅のしらべ。このページは講演資料をもとに制作した独立した学習ガイドで、松本市の公式ページではありません。公式ロゴやサイト掲載画像は使用していません。
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